函館の坂道ガイド
坂道が絵になる町、函館西部地区。
その魅力を、歴史、見どころ、レア情報などいろいろ交え、気の向くままに紹介します
大火で生まれた函館の坂道
函館山腹から、ほぼ整然と海に向かって延びる坂道。それが坂の町・函館の美しい景観の秘密です。
しかし、これらの坂道は自然発生的にでき上がったものではありません。
狭い市中に人家が並び、周囲は海で風も強いという函館西部地区。おまけに1本の川もなく、井戸水の水源も豊かではありませんでした。そのため江戸時代から一たび火事が発生すると、すぐに燃え広がり、消火活動もおぼつかなかったのです。
江戸の昔に、函館発展の基礎を築いたと言われる高田屋嘉兵衛も、それを何とかすべく、私費で各所に井戸を設けていますが、なかなか火災を食い止めるまでには至りませんでした。
明治の新しい時代を迎えても、事情は変わらず、明治11(1878)年、12年には連続して大火に見舞われます。
それに対して、新しい北海道開発の担い手となった開拓使の指導により、火災に強い町並みづくりのため、街区改正が行われます。
それまで細くて曲がりくねっていた西部地区の坂道を、広く真っ直ぐなものに付け替えるという事業です。
実に140年ほども昔に、いわゆる都市計画が実施されたのです。
その結果、碁盤目状に近い近代的な市街が誕生し、その結果、函館の景観形成にも一役買うことになりました。
ただし、なおも戦前の函館はいくたびも大火に見舞われます。海に近く風が強いという自然環境は、おいそれとは克服できるものではありませんでした。
それでも函館はくじけることなく、火災に強い町づくりを推進します。
銀座通りに今も残るレトロな耐火建築は、大正10(1921)年の大火後に、通りをまるごと防火帯にするため建てられたものです。函館市内の各所に、グリーンベルトのある幅の広い道路が走っているのも、昭和9(1934)年の大火後のさらなる防火・類焼対策の賜物です。
函館に行ったら、坂道ポストに注目しましょう
函館は坂の町。函館山麓に開けた西部地区には19の坂があり、それぞれに坂道の由来を説明したポスト(標柱)が立っています。そして、その多くには、函館市の鳥である「ヤマガラ」のレプリカが。
異国情緒あふれる町並みをバックに立つ坂道案内ポスト。それだけでも絵になります。
味わい深い坂の名前
八幡坂に二十間坂、基坂に姿見坂、大三坂とさらにその上に延びるチャチャ登り…。函館西部地区の坂道には、いずれもユニークで味わい深い名前が付いています。
たとえば基坂は、北海道開拓の出発点となった函館から、新たな道行政の中心となった札幌へ向かう道路の起点となったことからのネーミング。姿見坂は、幕末に遊郭が設けれたことから、遊女の艶姿が見られたためとか。二十間坂は、明治初めころ、当時としては先進的な都市計画がなされ、道幅が二十間(36メートル)に拡幅されたことによるなど、本州などと比べれば歴史の浅い町ながら、近代以降の凝縮された歴史が、これら坂道の名前に表されています。
一番人気は八幡坂(はちまんざか)
CMや映画にもたびたび登場した八幡坂。晴れた日はいつも記念写真を撮る人だかりができています。
函館発展の歴史を築いた青函連絡船で、最後まで活躍した「摩周丸」が、今も連絡船の記念館として係留されている姿が見下ろせます。
近ごろはすぐ後ろにクルーズ船の岸壁ができて、大型のクルーズ船入港の折には、摩周丸もその偉容に圧倒されてしまうのが、ちょっと残念。だけど、それも新しい函館の風景なのかもしれません。
歴史の詰まった基坂(もといざか)
現在、元町公園となっている基坂上は、かつて箱館奉行所が置かれた場所。明治維新以降も開拓使の書籍庫や、渡島支庁が置かれました。
坂を下った両脇には、五稜郭設計者の武田斐三郎が教鞭をとった幕府の学問所である諸術調所が開設され、その後、その地にはわが国近代医療の先駆けとなった函館病院が開業しました。
このほか、坂の中ほどには、イギリス領事館、警察や郵便局、坂下には日本銀行支店や税関が置かれ、長らく行政や経済の中心地でした。なくなった建物も少なくありませんが、今は沿道には、市が公募により設置したパブリックアートが見られます。
日本の道100選の1つ、大三坂(だいさんざか)
坂上には元町教会群、石畳のある坂道の両側には、函館名物の和洋折衷住宅や、文芸評論家・亀井勝一郎の父が建てた瀟洒な洋館が並ぶ大三坂。市電通りにはロシア人商社の建てた白亜の洋館や、日本人毛皮商のビルだったレトロなコンクリート建築が、今も店舗、事務所として使い継がれています。
もっとも函館らしさが凝縮された坂道と言われ、日本の道100選の1つにも選ばれています。
モースも訪れた函館、あさり坂
大森貝塚の発掘で知られるアメリカ人エドワード・モースは、函館にも調査に来ています。その際、今の青柳町から宝来町あたりから、古代人の食べたアサリの貝殻が見つかりました。あさり坂は、そのことにちなんで名付けられました。
南部坂 要塞第一地帯の標柱
いつも観光客で賑わう函館山ロープウェイ山麓駅。その南部坂をはさんた向かい側に、小さな石の柱が立っています。
見ればそこには、「要塞第一地帯」という何ともきな臭い文字が彫られています。
今でこそ、函館名物の夜景観賞のマストスポットになっている函館山も、戦前は一帯が軍事施設になっていました。
函館山からは一望の下という津軽海峡。当時の貴重なエネルギー源であった北海道の石炭を本州に運ぶ重要な輸送路であるとともに、外国船が自由に横切ることのできる公海であったため、有事の際には、攻撃にさらされる危険性が高かったのです。
そこで、日清戦争後の明治29(1896)年に、要塞設置計画が発令され、山全体が軍事拠点化されていきます。明治35年に函館要塞が完成、大正13(1924)年には、津軽要塞へと再編されます。
函館山は、一般人全面立入禁止となり、地図からも函館山の存在が消されてしまいました。「要塞第一地帯」の標柱は、それを物語る生き証人です。
なお、函館山や周辺地域は、許可なく写真を撮ることも禁止されました。戦前の函館市内を写した絵はがきに、「津軽要塞司令部許可」「津軽要塞司令部許可」などの文字が印刷されているのは、このような理由によるものです。
「赤い靴の少女」に会える八幡坂下
野口雨情作詞の童謡「赤い靴」。そこに登場する少女は、横浜から異人さんに連れられ行っちゃった、と歌われています。
モデルとなった少女とされている「きみちゃん」は、渡航前に結核を患い、実際には出て行かなかったそうですが、それ以前、母とともに、函館に移り住み、そこで「異人さん」に預けられたというのが定説だとか。
あくまでも歌の世界、詳しくは定かではありませんが、八幡坂下の海の手前に「赤い靴の少女像」が、有志の手により建てられています。
弥生坂 啄木が教えた小学校
函館に移り住み、函館に題材を求めた歌を残した石川啄木。啄木に敬意を払う地元の短歌同人に歓迎されますが、経済的には不遇でした。
しかし、短歌同人たちの配慮により、小学校の代用教員の職を得ます。そうして勤務したのが、弥生坂の中ほどにある弥生小学校です。
ただし、啄木が函館に暮らしたのはわずか132日。啄木が移り住んでほどなく明治40(1907)年の大火が勃発し、啄木一家は札幌に転居しました。また、そんな短期間のうちにも、啄木は代用教員の職にありつつ、函館日日新聞の遊軍記者としても活動しました。
なお弥生小学校は、今東光や文芸評論家の亀井勝一郎、直木賞作家の久生十蘭(ひさおじゅうらん)、4人が4人とも文芸や芸術で名を上げたという長谷川四兄弟など、そうそうたる人材を輩出しています。
船見坂のハイカラ銭湯
船見坂の中ほどに、壁はピンクの下見板張り、2階は上下開閉式の通称「ギロチン窓」をもつハイカラ・レトロな建物があります。
この建物は、昭和3(1928)年に建てられて以来、ずっと銭湯として営業を続ける「大正湯」。地元主催の映画祭のシナリオコンクールから生まれた函館舞台の映画「パコダテ人」のロケにも使用されています。
なお、函館西部地区には、かつてたくさんの銭湯がありましたが、今や営業を続けている「お風呂屋さん」は、この大正湯と、市営から民営に移管された「谷地頭温泉」の2つだけになってしまいました。