コロナ渦だけど、ちょっと香港のこと
中国政府系の銀行が、周囲を威圧するかのような、風水を乱す巨大な迷惑タワーを建設すれば、イギリス系の銀行が、まるでそれを迎え撃つかのような大砲の形をした窓拭き用のウインチを屋上に据える。
あるいは部数拡大を狙った新聞社の社長、業界を巻き込む値下げ競争を仕掛けつつ、自社も採算割れで行き詰まれば、あっさりと「私たちは間違っていました」と世間に詫びて、値上げに転じる。
今となっては隔世の感だが、まさに「何でもあり」という言葉がぴったりはまる自由闊達さが香港の魅力だった。
そして当時、香港名物として知れ渡っていた看板は、そういう街の気質を象徴していた。
どこを歩いていても、見上げれば、バスやトラックの背丈ギリギリに道路にはみ出した看板の洪水が目に飛び込んできたものだ。
先日Googleマップで久しぶりに香港の街の様子を眺めたが、そういう看板がもっとも高密度に空を舞っていた九龍の尖沙咀、彌敦道(ネイザンロード)界隈が、見違えるようにすっきりしていた。
看板がきれいさっぱり消え去っていた。
「当時」というのは、香港が中国に返還されるすぐ前の1996年から1997年のことだが、思えばもう20年以上経っている。
もとより香港は、「行くたびに景色が変わっている」と言われるほどに変化の激しい街ではあったが、さすがに20年の歳月は、想像を絶する変化をもたらしていたようだ。
中国政府は昨今、急速に香港の締め付けを強めている。
民主活動家が続々と連行され、先日は、反中国色の強い新聞社社長が起訴された。
何と何と、その新聞社社長というのは、返還直前の香港新聞界における値下げ競争の仕掛け人、蘋果日報(リンゴ日報)の黎智英(ジミー・ライ)氏であった。
それにしても、当時は「商魂だけ」と思っていた香港の人々が、ここまで腹を据えて筋の通せる人々とは思わなかった。感服するのみだ。
逆らえばどんな目に遭うかわからない。それを重々知りつつも、民主主義を守るため、多くの市民が身を挺する。
一方で、安全地帯で好き放題言っているだけにしか見えない野党政治家、メディア、猿まねブロガー、モンスター何とやらの諸氏が、わがもの顔で跋扈する国もあるわけだが。
ともあれ「当時」の香港が懐かしく、電子書籍で写真集を出してみた。
ぜひご覧いただいて、いろんなものと比較していただけると嬉しい限り。
今の日本、リベラルを標榜する先生方やメディアやらネット市民やら何やらが、某国政府になりかわり、自由な発言、自由な発想を妨げているように思うのは気のせいか。
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