今こそ虔十公園林

東京の町田市に「南町田グランベリーパーク」がオープンするという。

大型商業施設と駅、公園が一体化した新しい街とか。

約100ものアウトレット店はじめ、ファッション、雑貨、飲食の店舗、映画館があり、

公園にはピクニックができる芝生、砂場、ブランコやテニスコート、

ほかにスヌーピーの美術館もできる。

年間来場者は1400万人が目標だそうだ。


すごい話だとは思うのだが、今はやっぱりこうなってしまうのか、という割り切れない思いが残る。

というのも、この新しい「街」は、東急電鉄、ソニー・クリエイティブプロダクツ、そして町田市が手を組んだ官民一体の事業だからだ。


つまり、何かが自然発生的に生まれるのではなく、

大きな企業なり行政なり、力のある組織が経済効果を考えて、プランを策定することで、

新しいものが誕生する。

そしてその背景には、おそらく統計や調査など、

しかるべきデータに基づく「目算」があるのだろう。


平たく言えば、

 ここはこれだけの人出があるから大丈夫…

 過去の事例に鑑みても、リスクが少なく、リターンが大きい…

てなあたりか。


どっちを向いても、資料を読みこなすのが得意な優等生の勤勉な仕事ぶりが垣間見える。

しかし、町にしても、賑わいにしても、「つくる」ものではなく「できる」もの

という考えをとりたい自分にとっては片腹痛し。


近ごろの都市再開発や地域振興は、何かにつけ上意下達のようなプランありきで、

市民の意思や力とは無関係な気がしてならない。

そしていざ、蓋を開けてみればどこかの物真似、なんてことが、これまで多くなかったか。

もっともディズニーランドやIRのように、

端から直輸入、コピー/ペーストなんてのも少なくない。

知らないうちに土地のにおい、伝え継がれた地域の個性は消滅する。


前例があるから大丈夫、とでもいうのだろうか、

あるいは失敗しても、よその成功例に倣ってやっただけ、

と言えば言い訳が立つとでもいうのだろうか

いろいろな意味でリスクを避けて通ろうとする小賢しさばかりが、

目につくやら鼻につくやら。


そんな現代人の「仕事」に辟易する中、

宮沢賢治作「虔十公園林」の描く世界は、まるで桃源郷である。

虔十という周りになじめない主人公

(明言されていないが、その訳は今で言う発達障害なのだろう)が

一生に一度だけ親や兄に頼み事をして、

空き地に杉苗700本を植えることを許される。


その苗が立派に育ち、子どもたちの集う遊び場になる。

しかし虔十は若くして病死する。

だがその後、洋行帰りの偉い先生お墨付きの公園林として

皆から認められ愛されるまでに「成長」するのだ。


どう考えても、虔十の頭の中には、

「賑わい創出」なんて野暮な考えなど毛頭なかった。

心のままに「良し」とすることを形にしようと突き進んだ。


これは素人の推測だが、後世からは天才画家といわれつつ、

生きてるうちは認められることのなかったゴッホもよく似たものではなかったか。

世間に受けることより、自分の描きたいものを貫いた。


ゴッホの話は知りつつも、ゴッホを真似ようとするなど大きな博打。

誰しも人生のリスクは極力避けたいはずだから、それは当たり前のことながら、

目の前に虔十やゴッホのような他人がいたなら、

せめてそれを認めようという心の遊びがあってもいいと思うが、どうだろう。


「虔十公園林」の作者である宮沢賢治も天才画家ゴッホも、

社会的評価に浴さないまま37歳で鬼籍に入った。

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